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こんにちは、commonoデザイナー/翻訳者のうちむらです。

深層心理学の3話目です。ユングの心理分析の発想の根幹ともいえる、対称性、二面性について少し触れておきたいと思っています。

師とも親とも仰いだフロイトと決別した時期、ユングは、自分が、人間を活動させる全ての動機の根源が性的衝動であるとのフロイトの考えを全面的に受け入れることはどうしてもできない、と感じ、また、自分の唱導する心理学の体系をフロイトが受け入れることは到底ありえないだろうということも自覚していたようです。

しかし、なぜ「どうしても」分かり合えない、「到底」受け入れられないという結論に、ユングは至ったのでしょうか。それを、「そんなもん」と考えず、その理由を掘り下げることができたのが、ユングの研究者としての才覚であったと僕は思います。

ユングはかなり若い頃から、自分や、周りの人の中にある「もう一人の自分」ともいうべきものに、深い関心を抱いていたようです。スイスの平凡な牧師の家にうまれた、特にずば抜けた知性や才能があるわけでもない、それでいて野心のようなものがないわけでもない田舎の若者としての自分の裏に、なにか神聖さや悪魔的な要素、夜の闇や夢の世界にどうしても魅了される部分、いわば自分の「B面のようなもの」があることを観察していました。

ユングが最初にこの「影の人格」を認めたのは、彼の母親だったようです。ユングの母は、陽気で太った料理上手なひとで、牧師の妻として周りの人と接するのがうまい、常識的で話し好きな、暖かい人物だったようです。しかし、そのような彼女の中に、どこか神秘的で薄気味悪く、しかも毅然としていて反論の余地がないような、「人格のB面」をユングは観察していました。

ユングが6才くらいの頃、彼の村にはある裕福な一家がおり、その家にはユングと同年代の息子がおりました。普段からおぼっちゃま然としていたその子の態度にユングはわけもなく苛ついて、彼を殴ってしまいます。少年の母親は怒ってユングの家におしかけ、いろいろとクレームをつけたので、ユングのお母さんはこれまでにないほど長くお説教し、涙ながらにどうしてそんなことをしたのか問いただしたと言います。

少年ユングは、彼らの振る舞いが自分のいた村のコミュニティに何か不調和のようなものをもたらしていると感じ、それを是正する気持ちで殴ったので、自分のしたことにとくだんの罪悪感は持っていませんでしたが、自分の母親をそれほどまでに動揺させてしまったことに申し訳ないという気持ちになり、家の隅で小さくなっていました。そうしていると突然母親が「もちろん、子どもをあんな風に育てちゃいけない」とつぶやくのを聞いてはっとしたといいます。

自分の事を涙を流しながらしかる母と、自分の行ったことに賛成の母。この二つの人格には大きな隔たりがあります。しかし、「本音とたてまえ」という単純な枠組みではなく、どちらの顔も本当の母親のキャラクターであり、いわば人格の表と裏、外側と内側というようなものであることを、ユングは感じ取りました。きっと、自分の中にもそのようなはっきりとした二面性があることも、それは母親から受け継いだ資質なのだろうということも自覚していたのでしょう。自身の母の表に普段出ている人格の背後から、時々ヌッと表れる本能的な知性とでも言うべきものにユングは、「全ての母が太古から持つ共通の人格」のようなものを見いだす事になります。

このような人間の両面性というものが、ユングの思考の大きなテーマとして一貫して流れています。意識と無意識、男性と女性、光と闇、夢と現実、といった具合に、物事を対として考えました。それは性格タイプの分類にもあらわれており、内向型・外向型と大きく分類し、それぞれに思考・感情・感覚・直感のどれかが強く影響するというモデルを作り出しました。

自分の中に相反する人格要素が共存しているという感覚は、誰にでもあることと思います。一見矛盾したふたつの要素の配分の割合が、無限に存在する性格というものを作り出している、という基本的な考え方は、今でも十分通用するものだと僕は思います。

もっとも、ユングはその考え方を文化や宗教にもあてはめ、例えば西洋と東洋の宗教をそのような対と考えたり、教会とオカルトをその図式にあてはめたりしようともしています。結果、ユングの持論の展開はどうしても科学という枠組みから外れて行き、いわゆる「トンデモ」な方向に向かってしまうのですが、それもおそらく、彼の人格の中に潜む、神秘的なものへの渇望によって生み出されたものなのでしょう。フロイトやアドラーにも起こったことですが、こと思索や哲学という点において、人間は自分の視点にかけられたフィルターを外すということが、本当に難しいものだと考えさせられます。

続きます。

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